日本は北朝鮮と和解していないので国交もない。 もし米朝首脳会談で北

日本は北朝鮮と和解していないので国交もない。 もし米朝首脳会談で北朝鮮が非核化宣言をすると日本は北朝鮮に対して戦争和解して戦争和解金を支払い国交を結ぶ必要が出て来る。
この戦争和解金に日本は北朝鮮に1兆円クラスの数兆円を北朝鮮に和解金を支払うことになる。
日本は未だに北朝鮮に和解金を支払っていない。
韓国には戦争和解金として幾ら支払ったのでしょう?
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●40年目の検証 私の拉致取材80
2018年4月11日 第22章
◆変わったのは被害者と家族の人生だけではない
「9・17」(2002年9月17日)、横田滋さん、早紀江さん夫妻に、もう1つ、重大なことが伝えられていた。
「娘さんは結婚して、女の子がいます」
キム・ウンギョン(注・当初はヘギョンとされたが、後に訂正)さん、15歳。
元夫の金英男(キム・ヨンナム)(注・北朝鮮は当初、キム・チョルジュとしていた)氏は先に書いたように、「自殺した」とされた前妻、横田めぐみさんの「遺骨」を提供した人物で、韓国からの拉致被害者だった。
こんなことがあった。
祖父母であることがDNA型鑑定で判明した横田さん夫妻へのキム・ウンギョンさんのビデオメッセージが日本に届き、メディアへ公開前に家族会で見た。
詰めかけた報道陣は部屋に入れず、廊下にごった返していた。
その中に私を見つけた家族会メンバーの1人が手招きした。
「あなたと兵本さん(達吉氏=元共産党議員秘書)、石高さん(健次氏=大阪朝日放送プロデューサー)の3人は家族会の顧問みたいなもんなのだから、入っていいですよ」
親切心からであり、有り難くは思ったが、ビデオ鑑賞後、報道陣に囲まれて困惑した。
「どなたの親族ですか」
「ビデオ、どうでしたか?」
強い違和感に襲われた。
個々の被害者家族との親交は別として、家族会とは距離を置こうと決めたのは、あの時だった。
◆「お嫁に行って」
メディアは拉致報道に力を入れるようになった。
もう「第3氷河期」が来ることはないだろう。
潮時だった。
拉致取材を通して、様々なドラマを見聞してきた。
私以上に拉致という犯罪を憎み、被害者家族を思ってきた何人かが、心ならずも救援活動から遠ざかって行った。
拉致事件が変えたのは被害者と、その家族だけではなかったのだ。
欧州ルートで「よど号犯の妻たち」によって北朝鮮へ拉致された松木薫さん(26)には将来を約束した女性がいた。
失踪した松木さんの帰りを10年待った。
縁談があった。
泣く女性に、松木さんの姉、斉藤文代さんは諭したそうだ。
「お嫁に行ってくれた方が、薫も喜んでくれると思います。
自分の幸せがなくなるかもしれないから結婚してください」
女性は嫁いで2児の母となった。
「『(主人は)薫さんが帰ってきたらお会いしたい』
『お礼を言いたい』
と言ってくれているので、薫さんと会わせてくれますか」
「ぜひ、会ってやってください」
◆歌謡曲の講義
この40年間、著名な方から
「拉致の話を聞かせてほしい」
と声がかかったことが1度だけある。
昨年(2017年)、往生された作曲家の船村徹先生だった。
上京時の定宿で2~3時間話を聞いていただいた。
先生の関心は拉致が社会的認知を受ける以前の被害者家族たちの心情にあったように記憶する。
裕福な家庭にしかテレビのなかった昭和30年代初頭、ラジオから流れる船村メロディーを聴いて育った。
『別れの一本杉』『柿の木坂の家』『ご機嫌さんよ、達者かね』ー。
何十年経っても諳んじていた。
私の話は脱線して拉致から歌謡曲へ。
後日、「お宅の記者に歌謡曲の講義をされた」
と先生が苦笑いしていた、と人づてに聞いて赤面した。
閑話休題。
これまでに政府認定の拉致被害者12件17人のうち15人に触れた。
認定が遅かった、残る2人のことも書き留めておく。
松本京子さん(29)が拉致された鳥取県米子市和田町は伯耆富士(ほうきふじ)・大山(だいせん)を望む、日本海に面した町だ。
横田めぐみさん拉致の約1カ月前の1977年(昭和52年)10月21日夜だった。
近くの編み物教室へ歩いて向かった京子さんが、松林で見知らぬ男2人と立ち話をしているのを不審に思った近所の人が声をかけた。
「何をしているの?」
男たちは、近所の人にいきなり殴りかかり、顔を縫うほどの怪我を負わせ、京子さんを連れて海岸の方へ逃げた。
神戸市のラーメン店員、田中実さん(28)のケースは1997年(平成9年)、月刊「文芸春秋」を読んで知った。
神戸市在住の張雲龍氏が自ら北朝鮮工作機関「洛東江(ナクトンガン)」のメンバーだったと告白。
在日工作員2人が1978年(昭和53年)6月、田中さんをオーストリア・ウィーン経由で拉致したことを暴露して発覚した(注・兵庫県警は、以前から情報を掴んでいたとしている)。
●40年目の検証 私の拉致取材81
2018年4月12日 第23章
◆「無理がある」・・・喉まで出かかった言葉は控えた 取材を受ける
取材する立場の記者が取材を受けるのは妙なものだが、たとえライバルのメディアであっても、拉致に関わる取材は断ったことがなかった。
都合3回の取材を受けた朝日新聞が最も熱心だった。
というより新聞は朝日新聞しか取材依頼がなかった。
話せる範囲のことは正直、正確に話した。
計4~5時間はインタビューに応じたと記憶するが、3回とも1行の「」の引用も掲載されなかった。
新聞編集では、そういうこともあるのだ。
最初の2回は2002年(平成14年)暮れ、拉致被害者5人の帰国から間もなかった。
この機会に拉致報道を1970年代まで遡って検証したい、という趣旨だった。
◆きりがない「なぜ」
素晴らしい試みだが、担当した若い記者たちは自社紙面の縮刷版をめくって、先輩たちの仕事ぶりに首をひねったに違いない。
なぜ、宇出津事件(1977年<昭和52年>、久米裕さん拉致事件)の記事が「拉致」ではなく、「密出国」なのか。
なぜ、政府が初めて北朝鮮による日本人拉致疑惑の存在を認めた「梶山答弁」(1988年3月26日)の記事が載っていないのか。
なぜ、朝日新聞の訪朝団(1992年3月)は拉致について北朝鮮側に質さなかったのか。
なぜ、横田めぐみさん拉致疑惑発覚(1997年2月)の記事が他紙より小さいのか。
きりがないので、やめる。
いくつかの「なぜ」は産経新聞にもあるが、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞など他紙に比べれば、ずっと、ずっと少ない。
朝日新聞は2002年12月27日付朝刊に
「検証『北朝鮮拉致報道』ー4半世紀の家族の願い 朝日新聞はどう伝えたか」
を見開きで掲載した。
幸い、取材に来た記者は好感の持てる若者だった。
彼らが真摯に取材したことは紙面から伝わるが、朝日新聞が拉致疑惑をどう報道してきたかという検証には、そもそも無理がある。
どう報道しなかったか、なぜ報道しなかったか、という検証こそすべきだと思いますよー。
喉まで出かかった言葉は控えた。
若い人に言っても仕方がない。
著名なコラムニストの取材を受けたのは2007年だった。
夕刊1面の連載<ニッポン人脈記>で、大阪朝日放送プロデューサーの石高健次氏と元国会議員秘書、兵本達吉氏、私の3人を紹介している。
写真は載ったが、この時も「」はなく、思わず笑ってしまった。
<北朝鮮による拉致問題に、はじめは官庁も政治家もマスコミもほとんど目を向けなかった。
掘り起こしたのはごく少数のジャーナリストや議員秘書である>
<78年、日本海の海岸などで3組のアベックが蒸発した。
80年1月、産経新聞の阿部雅美が足で調べて「外国情報機関が関与?」と1面トップで報じた。
だが政府も警察も反応せず、世間は「虚報」扱いした>
(2007年3月6日付夕刊)
連載タイトルに<安倍政権の空気>とあるのは、いかがなものかと思うが、他社からの好意的な紹介は最初で最後だった。
「朝日の1面に写真が載った産経の記者は、後にも先にもお前だけ。
よほど悪いことでもやったか」
冗談好きの先輩にからかわれた。
◆会場から立ち去る
思いもよらぬ扱いに腰が引けたこともあった。
2005年と記憶する。
韓国系米国人女性、パティ・キムさんが産経新聞東京本社を訪ねてきた。
夫のクリス・シェリダン氏と2人で拉致のトキュメンタリー映画を製作する、という。
どうせ使われないのだろうと、インタビューに応じた。
米ワシントンから礼状が届いた。
「おかげさまで内容の濃いものになりました」
それきり忘れていたが、できあがった
「ABDUCTION:The Megumi Yokota Story 邦題・めぐみー引き裂かれた家族の30年」
が好評で、スラムダンス映画祭観客賞、サンフランシスコ国際アジアン・アメリカン映画祭優秀ドキュメンタリー賞などを受賞したとの報に接した。
日本でも公開するというので社会部の中村将記者と試写会場の隅で見た。
何と、自分が全体のナビゲーターのように、しつこく登場する。
これはないだろう。
慌てて会場から立ち去った。
◆北朝鮮は、日本が軍事オプションも斬首作戦も拉致被害者奪還作戦も絶対にできないとナメきっている。
中国も沖縄県・尖閣諸島への領海侵犯など日本をナメきっている。
安倍首相は、現行の憲法と法律の枠組みの中で最大限努力している。
だが、拉致や、沖縄県・尖閣諸島などの問題の根本的解決には、憲法第9条を改正して、軍事力を背景とした外交交渉が行える国に日本を戻すことが最善策である。
●北朝鮮問題解決の主役は日本が果たすべきだ
2018年6月8日
紆余曲折あったが、史上初の米朝首脳会談は予定通り、2018年6月12日にシンガポールで開催されるようだ。
だが、ドナルド・トランプ米大統領の発言のニュアンスが、最近になって変わったと指摘されている。
従来、北朝鮮の非核化プロセスを
「迅速に」
と言ってきたものだが、金正恩朝鮮労働党委員長の側近、金英哲党副委員長との面談後は、
「急がなくていい」
へと変わった。
交渉が決裂すれば、即、軍事オプションに踏み切る可能性も匂わせていたが、複数回の会談も示唆している。
米朝首脳会談の話が出た後、トランプ氏は信頼する安倍晋三首相に助言を求め、
「北朝鮮の時間稼ぎの手法」
についてレクチャーを受けたはずだ。
それなのに、
「米国はまた北朝鮮の時間稼ぎにハマる気か?」
という印象すら受ける。
おそらく、日本の保守は
「おいおい、トランプさん、しっかりしてくれよ」
と、今後の展開をヒヤヒヤしながら見守っていることだろう。
しかし、トランプ氏とマイク・ポンペオ国務長官はともに、政治家になる前に有能なビジネスマンとして大成功を収めた人物である。
交渉ごとの駆け引きは得意中の得意であり、私のような一般人にすらバレバレの露骨な戦略に引っかかるとは思えない。
別の角度の指摘もしたい。
「アメリカファースト」
のスローガンを掲げるトランプ氏は、常に米国の国益が最優先である。
日米の国益が一致する場合のみ、日本の国益のために行動しているよう見えるだけだ。
勘違いしてはならない。
そもそも、
「北朝鮮の非核化」
や、
「拉致被害者奪還」
は本来、日本が主役として解決すべき問題である。
オバマ政権時代から長期拘束されていた米国人3人が先月、あっさり解放されたのは、トランプ氏なら平壌を空爆したり、金正恩氏の
「斬首作戦」
を実行しても不思議ではないーという恐怖心を植え付けることに成功したからだ。
米国は、日本に手本を示した。
北朝鮮は、日本人拉致問題について、
「既に解決した」
という姿勢を崩していない。
日本が軍事オプションも、斬首作戦も、拉致被害者奪還作戦も絶対にできないとナメきっている。
安倍首相は、現行の憲法と法律の枠組みの中で最大限努力している。
だが、拉致や、沖縄県・尖閣諸島などの問題の根本的解決には、憲法第9条を改正して、軍事力を背景とした外交交渉が行える国に日本を戻すことが最善策である。
●北朝鮮拉致幕引きへ謀略工作 「特定失踪者数人の帰国」情報
2018年6月8日
米朝首脳会談(2018年6月12日)を見据えて、永田町の一部で
「特定失踪者、数人の帰国」
という衝撃情報が流れている。
横田めぐみさん(53)=拉致当時(13)=をはじめ、拉致被害者全員の帰国が熱望される中、拉致問題の幕引きを狙う、北朝鮮の許し難い謀略工作と言えそうだ。
「北朝鮮側が、日本人数人が帰国する可能性を伝えてきたという情報がある。
どうやら、特定失踪者とみられる」
「曽我ひとみさん(59)=同(19)=のように、日本政府が把握していない被害者が含まれる可能性はありそうだ」
「日本人妻の帰国も検討される」
官邸に近い関係者は、こう語った。
政府が認定している「北朝鮮による拉致被害者」は17人。
このうち、5人は2002年に帰国した。
残るは、横田めぐみさんら12人。
北朝鮮は「8人が死亡、4人は未入国」としているが、客観的証拠は示していない。
一方、特定失踪者は、北朝鮮による拉致の可能性を否定できないものの、日本政府の認定を受けていない人を指す。
「特定失踪者問題調査会」(荒木和博代表)のリストでは、約470人に上る。
警察当局が、拉致の可能性を踏まえて捜査している行方不明者は880人を超える。
この時期に、衝撃情報が流れた理由は何か。
金正恩朝鮮労働党委員長率いる北朝鮮は、国内外で処刑や暗殺、拷問、強制労働など深刻な人権問題を引き起こしている。
トランプ政権は2018年4月に発表した、世界各国の人権状況に関する2017年版の年次報告書で、
「国内で日常的に人権を侵害し、不安定化の元凶となっている」
として、北朝鮮などを名指しで非難した。
拉致問題についても、トランプ氏は2018年6月7日の日米首脳会談後の記者会見で、
「北朝鮮との間で、拉致問題を確実に議論する」
と明言した。
北朝鮮が、世界各国の経済制裁を解除し、経済支援を取り付けるには、人権問題への対応が不可欠である。
拉致問題でも前進をアピールする必要性があるのだ。
そこで、北朝鮮は
「特定失踪者 数人の帰国」
という”くせ玉”を検討しているようだ。
「北朝鮮としては
『拉致ではない。国内で見つかったので帰国させる』
『拉致問題は解決済み』
と主張するとみられる」(官邸周辺)
また、日米情報関係者は
「北朝鮮が
『日本人妻の一時帰国』
『遺骨収集』
『日本人入国者』
を3点セットにして、人権問題に前向きな姿勢を装おうとしているとの情報もある。
最悪の場合、日本側が把握していない失踪者数人だけを帰国させ、拉致被害者はおろか、特定失踪者すらも帰国させないまま、幕引きを計ろうとしている懸念がある」
と語る。
日本としては到底受け入れられない。
朝鮮半島情勢に詳しいジャーナリストの加賀孝英氏は
「拉致被害者の帰国は、日本にとって北朝鮮対応の一丁目一番地だ。
騙しの手口で問題を終結させることは許されない。
北朝鮮が明確な回答をして、被害者全員を帰国させない限り、経済制裁の解除も、経済援助もする必要はない」
と語っている。
◆●40年目の検証 私の拉致取材74
2018年4月3日 第22章
◆日朝首脳会談 「8人死亡」は想定外、「頭が真っ白になった」
「有本恵子さんを北朝鮮へ誘拐した」。
よど号乗っ取り犯の元妻、八尾恵・元スナック店主の証言をきっかけに拉致報道がせきを切ったように溢れ出していた2002年(平成14年)8月30日、小泉純一郎首相の訪朝が突如、発表された。
日本の首相として初めて国交のない北朝鮮へ行き、金正日国防委員長と首脳会談を行う。
電撃的という表現は大仰ではなかった。
会談予定内容などは発表されなかったが、拉致問題で再び暗礁に乗り上げていた国交正常化交渉の再開と、拉致問題の打開をセットにした会談になるだろう、との観測が一般的だった。
「拉致問題の解決なくして国交正常化はあり得ない」
と繰り返していた小泉首相の訪朝に国民の期待が膨らんだ。
2002年(平成14年)9月17日の首脳会談前夜、元共産党議員秘書、兵本達吉氏と電話で話をした。
1998年に共産党を除名された兵本氏は、その後
「救う会(北朝鮮に拉致された日本人を救うための全国協議会」
の活動に加わっていた。
私は、サンケイスポーツ編集局に異動していた。
その夜のやり取りについて、兵本氏は当時、週刊誌のインタビューで語っている。
<(阿部との電話で)もうそろそろ拉致問題から足を洗わせてもらおう、日本の首相自らが北朝鮮の金正日(国防委員長)の所へ拉致した人の返還交渉をしに行くような時代なんだから、我々の出る幕はない。
我々は十分役割を果たしたんじゃないか、だからこの問題からは撤退させてもらおうと話したんですよ>
◆それなりの評価
小泉訪朝の評価は大きく分かれる。
曲がりなりにも北朝鮮に拉致を認めさせ、謝罪させた上で拉致被害者5人を日本へ取り戻すに至ったのだから成功と言う人がいる。
いや、交渉のハードルを低くして包括的な解決を遠のかせた北朝鮮ペースの会談は失敗だったと言う人もいる。
そえぞれに理があるように思うが、もし小泉訪朝がなければ、果たして今より良い結果に至っていただろうか。
膠着状態を打破できる政治家が現れただろうか。
とても満足のいく成果ではなかったが、拉致が日本社会に認知さえされず、メディアや政治からも疎外されてきた長い歳月を知る者としては、それなりの評価をせざるを得ない。
ただし、疑問も抱いた。
時には出たとこ勝負のような首脳会談もあるのだろうが、それにしても1年近くの水面下交渉に加えて訪朝発表から20日間近い準備期間がありながら、なぜ、次のような顛末になるのか。
2002年(平成14年)9月17日、小泉首相一行7人は平壌国際空港から首脳会談が行われる百花園迎賓館へ向かった。
日本からは、先乗り、同行合わせ100人超の取材団が訪朝していた。
◆今も闇の中
会談に先立つ事務レベル折衝で予期していなかったことが起きた。
拉致被害者14人の安否情報が、北朝鮮側から示されたのだ。
「5人生存、8人死亡、1人入国なし」
生存の5人とは
蓮池薫さん、奥土(現・蓮池)祐木子さん(以上新潟事件)
地村保志さん、浜本(現・地村)富貴恵さん(以上福井事件)
の2組のアベックと、
日本側のリストになかった新潟・佐渡の曽我ひとみさん
だった。
「死亡」とされた8人は
市川修一さん、増元るみ子さん(以上鹿児島事件)
横田めぐみさん
原 敕晁(はら ただあき)さん「辛光洙(シン・グァンス)事件」
田口八重子さん
有本恵子さん
政府が未認定だった欧州ルートの石岡亨さん、松木薫さん
だった。
宇出津事件の久米裕さんは、「入国なし」とされていた。
事前交渉で日本側は「拉致は避けて通れない」という原則と、当時、政府が被害者認定していた8件11人の安否を完全に日本側に通知しなければならない、と繰り返し主張したという。
水面下交渉の日本側責任者だった外務省の田中均アジア大洋州局長は首脳会談の際に何らかの安否情報がもたらされるのでは、と予測はしていたと後に語っている。
ただし、「8人死亡」は全くの想定外で、
「一瞬頭が真っ白になった。衝撃が大きかった」
と述懐している。
小泉訪朝の裏側に関しては、様々な憶測、詮索があるが、どこまでが本当なのか。
今も闇の中だ。
関係者は墓場まで持っていくつもりなのだろう。
●40年目の検証 私の拉致取材75
2018年4月4日 第22章
◆巨利への期待か、国家犯罪を認め謝罪した北朝鮮
2002年(平成14年)9月17日午前、北朝鮮・平壌の百花園迎賓館。
首脳会談を前にした事務レベル折衝で、拉致被害者「8人死亡」通告を受けた日本側は色をなした。
「きちんと説明してくれ!」
控室で待機中に報告を受けた小泉純一郎首相は、しばし沈黙して、呟いた。
「どういうことなんだ」
寝耳に水だった。
間もなく始まった首脳会談の冒頭、小泉首相は金正日国防委員長に迫ったという。
「日本国民の利益と安全に責任を持つ者として(8人死亡は)非常にショックだ。
家族の気持ちを思うといたたまれない」
金正日国防委員長は特段の反応は示さなかった。
「午後の部分で言います」
昼の休憩に入った。
北朝鮮側は一緒に昼食を、と提案したが、日本側は断り、持参したおにぎりを食べることにした。
「拉致したという白状、謝罪がない限り、平壌宣言への調印は考え直すべきだ。
認めなければ、席を立って帰国しましょう」
安倍晋三官房副長官の意見に小泉首相も賛同し、日本側の方針が決まった。
これは裏を返せば、安否情報に加えて、拉致を認めて謝罪さえすれば、宣言に調印する、ということでもあった。
◆動機もサラリ
控室の北朝鮮による盗聴を警戒し、大事なことは筆談する打ち合わせになっていたが、安部副長官は、あえて声に出したという。
これが北朝鮮側にどう伝わったのか。
午後に再開された首脳会談で金正日国防委員長が切り出した。
「拉致問題について説明したい」
拉致という言葉を初めて使った。
「遺憾なことであったことを率直にお詫びしたい」
拉致は「あり得ない」「でっち上げ」「捏造」と幾度となく繰り返してきた北朝鮮のトップが、いきなり、事実と認め、謝罪したのだった。
「特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走って行ってきた。
1つは特殊機関で日本語の学習ができるようにするため、もう1つは人の身分を利用して南(韓国)に入るため」
犯行動機までサラリと明かした。
これで日本側が平壌宣言に調印しない理由がなくなってしまった。
にわかに用意したハードルは軽々と越えられ、宣言は調印された。
私が仰天したのは北朝鮮が示した拉致被害者の14人の安否リストに22年前(1980年)に書いた3組のアベックや5年前(1997年)に書いた横田めぐみさんの名前が含まれていたことではなかった。
「8人死亡」であり、北朝鮮が拉致を認めたこと自体だった。
◆国民の関心は・・・
自らの国家犯罪を認めるなどということはない。
ずっと、そう考えていたからだ。
ただ、調印された平壌宣言を読むと、拉致を認めた理由らしきものは見えてくる。
2002年(平成14年)10月中の国交正常化交渉再開、日本の過去の植民地支配への痛切な反省と心からのお詫び表明に続き、合意事項にこうある。
「日本は国交正常化の後、双方が適切と考える期間にわたり、無償資金協力、低金利の長期借款供与等の経済協力を実施する。
その具体的な規模と内容を誠実に協議する」
前述した工作員による犯行が明白なラングーン事件や大韓航空機爆破事件への関与を認めても北朝鮮には何の利も益もないが、拉致は違う。
認めて謝罪すれば、平壌宣言に沿って遠からず国交正常化が実現し、代償として巨利が得られる。
非公式折衝で北朝鮮が日本側に植民地支配などに対する「補償」として要求した金額は130億ドル(当時の換算で1兆5600億円)と、産経新聞は報じた。
宣言のどこにも拉致の「ら」の字はない。
「日本国民の生命と安全にかかわる懸案事項が再び起こらないようにする」
との1項が含まれる、というのが日本政府の見解だった。
下交渉での”詰め”が、どう行われたのか、疑問は残る。
ニュース速報が流れ始めた夕刻から日本中が騒然となった。
東京の街角では人々が号外を奪い合った。
国民の関心が集中したのは平壌宣言の中身でもなく、国交正常化交渉の再開合意でもなかった。
「8人死亡」だった。
◆●40年目の検証 私の拉致取材76
2018年4月5日 第22章
◆北朝鮮の説明通り、「8人死亡」の断定報道
2002年(平成14年)9月17日は長い1日だった。
「9・17(キュー・イチ・ナナ)」。
拉致担当記者たちは、そう呼ぶ。
朝。
雨の中、2100人もの人々が集まって催された前日の緊急国民集会の余韻が、被害者家族たちには残っていた。
<小泉総理の訪朝はいよいよ明日に迫った。
私たちはこの訪朝によって政府発表の8件11人を含む全拉致被害者の原状回復が実現することを強く期待しー>(集会のアピール文から)
午前中には有本恵子さん生存情報が流れ、期待が膨らんだ。
皆、吉報を待った。
吉報だけを待った。
その頃、平壌では
「5人生存、8人死亡」
の思いもよらぬ安否リストが日本側に示されていた。
平壌で取材をしていた中村将記者によると、記者団に
「8人死亡」
情報が伝わったのは、夕方、外務省のブリーフィング(簡単な状況説明)の場だったという。
◆「残念ですが・・・」
日本では午後になって事態が動き出していた。
午後3時過ぎ、家族たちは政府が用意したバスで東京・麻布の外務省・飯倉会館へ向かった。
ホールで待った。
まだ「8人死亡」は伝わっていない。
1家族ずつ別室に呼ばれた。
最初は横田家だった。
滋さん、早紀江さん夫妻と、めぐみさんの双子の弟に、植竹繁雄外務副大臣が「宣告」した。
「残念ですが、娘さんは亡くなっておられます」
北朝鮮側の説明を「情報」としてではなく、確認した「事実」であるかのように伝えた。
夢にも思わない「悲報」だった。
午後5時過ぎ、
「5人生存、8人死亡」
のニュース速報が流れ始めた。
生存を伝えられた被害者4人(注・曽我ひとみさんの氏名は未公表だった)の家族たちは喜びの表情を見せることはなかった。
「何も嬉しいことはない」(浜本富貴恵さんの兄、雄幸さん)
「『死亡』とは信じていないが、仮に死んでいるとすれば、それは殺人だと思っている」(蓮池薫さんの兄、透さん)
「(会談が)10年早ければ全員が生存していたのでは」(奥土祐木子さんの父、一男さん)
劇団「夜想会」の舞台劇「めぐみへの誓いー奪還ー」の記録映像を見る機会が、最近あった。
主催者の野伏翔氏によれば、拉致被害者家族らから綿密に取材して脚本を書き上げたそうだ。
「9・17」の飯倉公館ホールの場面。
「8人死亡」を知って騒然となった家族たちの誰かのセリフにドキッとした。
産経新聞の阿部に電話かけて「8人死亡」を知らせるよう促したのだ。
◆見たことがない紙面
飯倉公館から電話がかかった記憶はないが、その時刻、私は勤務先のサンケイスポーツ編集局で原稿を書き始めていた。
できることは、それしかなかった。
吉報を前提に予定していた原稿は使えない。
「8人死亡」情報にいたたまれずに書いた署名記事が翌2002年(平成14年)9月18日付の産経新聞朝刊にある。
拙文だが、一部を再掲させていただく。
<こんなに残酷、非常な「結末」があっていいものだろうか。
拉致された息子、娘は、彼の地で生きているーそう望みを抱き、身を粉にして政府に、世論に訴え続けてきた家族たちの心情を思う時、言葉もない>
<歴史的な日の前夜「2002年(平成14年)9月16日」、同席させていただいた食事会でも、家族の方々は朗報を疑わなかった。
昭和54年秋、最初に取材でお会いしてから4半世紀、「生きていますよ」と励ましてきた記者(注・阿部)は、いま、家族の方々を正視できない>
<(拉致を)放置し、時に邪魔物扱いさえしてきた政府、政治の責任は軽くない。
拉致の被害者は、日本の国家主権意識の希薄さの犠牲者であるように思えてならない>
2002年(平成14年)9月18日付朝刊紙面。
産経、読売、朝日、毎日ー全紙の1面から内政面、外報(国際)面、社会面、社説、コラムまで拉致、北朝鮮で埋まっている。
40余年の記者生活で、こんな紙面は、あまり見たことがない。
「9・17」がどんな日だったか、改めて実感できる。
機会あれば、ご覧いただきたい。
事態は、まだ十分に把握されていなかった。
新聞全紙、テレビ全局が政府、北朝鮮の説明通り、「8人死亡」を断定して報じた。
「9・17」については『横田家の40年』の章で、もう1度触れる。
●40年目の検証 私の拉致取材77
2018年4月6日 第22章
◆潮目は変わった。マスメディアも舵を切った
「9・17」の日朝首脳会談で金正日国防委員長が認めたことで、北朝鮮による日本人拉致は動かぬ事実となった。
社民党は別として、もう誰も否定のしようがない。
あったか、なかったか、神学論争のような議論は何の意味も持たなくなった。
多くの国民が「8人死亡」で受けたショックとは全く異質なショックを受けて頭を抱えた人たちが、日本社会には少なからずいた。
言うまでもない。
拉致を産経新聞などによる
「捏造」
「でっち上げ」
としてきた人たちであり、
「確証がない」
「疑惑の段階に過ぎない」
と北朝鮮寄りとも取れる発言、論調を続けてきた政治家、文化人、学者、そして一部マスメディアだった。
あるいは、どう転んでも北朝鮮が認めるはずなどないのだから、どうせウヤムヤのうちに終止符が打たれる、とタカをくくっていた人たちだった。
いきなりハシゴを外された思いだったに違いない。
北朝鮮の度重なる強い否定と、確証がないということが、彼ら、彼女らの支えだった。
それが、一瞬にしてなくなってしまった。
具体例は控えるが、ある人は口をつぐみ、ある人は前言を翻し、ある人は前言さえ忘れてしまったかのように豹変した。
◆妙な心境
対照的に、自分は20年も前から北朝鮮の拉致を確信していた、などと声高にうそぶく人たちも現れた。
祖国を信じ、拉致を捏造と主張してきた在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)や在日本朝鮮人社会に動揺が広がった。
最盛期会員50万人と言われた朝鮮総連だったが、在日本大韓民国民団(民団)へ移る人たちが次第に増えていたところへ拉致問題が拍車をかけた。
公安調査庁によれば2016年(平成28年)時点での会員数は「おおむね7万人」。
激減だ。
現在の人数は分からない。
それにしてもー。
政府が認定しているだけでも11人<注・「9・17」(2002年9月17日)時点>の日本人をさらっていった国家犯罪が、その国のトップが認めることによってしか、被害国の社会で事実とされない。
「1980年(昭和55年)以来の産経新聞の一連の報道は事実、と”証明”してくれたのは金正日とはー」
まるで真犯人の出現で嫌疑が晴れた容疑者にも似た妙な心境だった私の、品を欠く思いだった。
拉致問題の解決より国交正常化を優先した外務官僚の中には、平壌宣言調印で2002年度内にも正常化実現という楽観的なシナリオを描く向きもあったという。
外務官僚にとって北朝鮮との国交正常化は、偉業として外交史に名を残す栄誉だ。
北朝鮮側も、これで日本から巨額の無償資金が来る、と期待していたに違いない。
両者とも日本の世論動向を読み誤った。
◆そぐわない呼称
爆発などという表現は使いたくないが、「8人死亡」によって北朝鮮に対する国民の憤りが文字通り、爆発した。
事実となった人権侵害、主権侵害の国家犯罪への怒りはもちろんとして、まだ当時ほとんど20~30代の男女8人が水難事故、交通事故、病気などで相次いで死亡したという、著しく説得力を欠く北朝鮮側の説明には多くの不自然な点がすぐに次々と見つかり、陽に油を注いだ。
国交正常化どころの話ではなくなった。
潮目は完全に変わった。
マスメディアも舵を切った。
象徴的だったのは北朝鮮の国名呼称だった。
日本の新聞は北朝鮮側の要請もあり、従来、北朝鮮を
「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」と表記し、
テレビは
「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」
とアナウンスしてきた。
産経新聞は横田めぐみさん拉致疑惑発覚前の1996年から原則「北朝鮮」と単独呼称に切り替えた。
読売新聞も1999年、そうした。
テレビの中ではフジテレビだけが早くから「北朝鮮」としてきた。
朝日新聞、NHKをはじめとする他の主要メディアが相次いで原則「北朝鮮」と替えたのは、小泉訪朝、拉致被害者5人帰国の2002年秋以降だった。
ただし
「民主主義人民共和国という、実態にそぐわない呼称は読者、視聴者の抵抗が強い」
などとは言わない。
「北朝鮮という呼び方が定着したうえ、記事簡略化も図れることから」(2002年12月28日付朝日新聞社告)だった。
◆●40年目の検証 私の拉致取材78
2018年4月7日 第22章
◆井戸掘りは手伝ったが、飲める水はいまだ出ず
2002年(平成14年)の有本恵子さん拉致発覚、小泉訪朝を境にマスメディアは、それまでの「不報」の穴を埋めるかのような大量の北朝鮮報道を始めた。
先の内閣府「外交に関する世論調査」によると、北朝鮮への関心事項(複数回答)のうち2000年に68.6%だった拉致問題は2003年10月調査では90.1%に跳ね上がっている。
曲折はあったが、2002年10月15日、
蓮池薫さん、奥土(現・蓮池)祐木子さん、地村保志さん、浜本(現・地村)富貴恵さん、曽我ひとみさんーの生存者5人が羽田空港で政府チャーター機のタラップを下り、ほぼ4半世紀ぶりに故国の地を踏んで家族と再会を果たした。
あの日、あの時、どこで何をしていたのか。
そう問われたことが幾度かあった。
サンケイスポーツ編集局で普段通り仕事をしていた。
むろん5人の帰国は喜ばしかったが、帰らぬ人たちを思えば、ひどく酷な光景にも思えた。
家族会の蓮池透事務局長(当時)にお願いをした、と当時のメモにある。
帰る人、帰らぬ人、その違いで家族会に亀裂が生じることがないようにー。
余計なお世話かもしれなかった。
◆重い言葉
帰国した被害者に会いたい、と思ったことが1度だけあった。
私は既に「紙」を離れて産経新聞のデジタル部門を分社化する仕事に就いていた。
1979年(昭和54年)冬に3組目のアベック拉致を探し歩いて、ようやくたどり着いた新潟県柏崎市の蓮池家の前まで出かけた。
蓮池薫さんを訪ねようとしたのだが、思い直してUターンした。
海岸でデート中、いきなり襲われ、袋詰めにされ、沖で工作船に移され、連れ去られた北朝鮮で4半世紀を過ごすー。
想像を絶する体験をしたのだ。
従順である限り、北朝鮮は衣食住、それなりに扱っただろうことは想像がつく。
そうした暮らしぶりは後輩記者たちが取材し、読者に知らせてくれていた。
私が知りたいのは、北朝鮮で揺れた心のうちだったが、それが語られるには、まだ早すぎた。
北朝鮮は依然として、あの北朝鮮であり、呪縛が解けて疑心暗鬼が消えるには少なくとも10年、いや15年はかかるだろう。
帰国から15年が経った昨年(2017年)10月、社会部の加藤達也記者の蓮池薫さんへのインタビュー記事を紙面で読んだ。
次のような言葉は、帰国直後はもちろん、ずっと聞くことがなかった。
ようやく話せるようになったのだと思う。
「なぜ日本は、我々を取り戻してくれないのか。
不安、恐怖、焦りー。
精神状態は尋常ではない」
「(指導者の)バッジを胸につけ、正月には忠誠の誓いを述べる。
拉致された上に、彼らに強制的に従わされ、教育される。
屈辱的で、辛かった」
「拉致された直後は、(日本へ)帰せ、帰せ、と憤ったが、次第に怒りや反発を表面に出さなくなった」
「反発したら生きていけないですよ。
子供の将来のことを考えると従わざるを得なかった」
生きるため、屈辱の順応を強いられたのだ。
「(帰国から15年経った今)24年間が辛うじてつながった」
重い言葉だ。
◆一入の淋しさ
5人の帰国から5日後、皇后陛下が誕生日に際して、宮内記者会の拉致に関する質問に次のように文書回答された。
<悲しい出来事についても触れなければなりません。
小泉首相の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみと共に、無念さを覚えます。
何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったかとの思いを消すことができません。
今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するに余りあり、その一入の淋しさを思います>
富山、福井、鹿児島、新潟ー。
アベック拉致を追って人気のない海岸を歩いた昔を思い出していた。
もし、あの時、あなたが取材に来なければ・・・帰国したアベックの家族からは望外な言葉を頂いたことがあった。
一新聞記者として井戸を掘る手伝いはしたのかしれないが、私が飲める水はいまだ出ていない。
●40年目の検証 私の拉致取材79
2018年4月10日 第22章
◆別人
北朝鮮の「8人死亡」の説明が矛盾、疑問だらけで著しく信憑性を欠くことが首脳会談の「9・17」(2002年9月17日)から日を置かず、明らかになっていった。
断定して報じたメディアは、すぐ方向転換した。
「日本政府としては、これを受け入れることはできない。
被害者の死亡を裏付けるものが皆無であるが故に、生存しているという前提に立っている」(内閣官房拉致問題対策本部)
この結論に至る経緯を資料からみてみる。
2002年9月、政府の拉致問題に関する事実調査チームに北朝鮮側から8人の「死亡確認書」が示された。
2004年11月の第3回日朝実務者協議では横田めぐみさんのものとされた「遺骨」と「カルテ」、松木薫さんの可能性があるとされた「遺骨」、事故死したとされた田口八重子さん、松木薫さんの「交通事故記録」などが証拠として日本側に渡された。
8人の「死亡」場所は4つの道(注・地方行政区画)に散っているが、横田めぐみさんを除く7人の「死亡確認書」は同じ病院の発行で、押された印影が全く同じだ。
北朝鮮側は「9・17」直前に急遽作成した、と認めた。
死亡を証明する真正な書類は一切存在しない。
日本では泳げなかった市川修一さんが緊急出張中に海水浴で水死、健康で既往症のなかった増元るみ子さんが心臓麻痺・・・。
「交通事故記録」に田口さん、松木さんの名前は記載されていない。
横田めぐみさんの「カルテ」の患者年齢は、横田めぐみさんの年齢と違っていた。
本人のカルテである証明はない。
死亡日は
「1994年4月13日」
としているが、担当医は当初、日本調査団に
「1993年3月13日」
と説明していた。
元夫、金英男氏が横田滋さん、早紀江さん夫妻に宛てた手紙(注・後に代筆と判明)にも
「1993年3月13日」
とあった。
1994年春頃まで横田めぐみさんの生存が確認されている、と日本メディアで報じられると、担当医も元夫も訂正した。
病院関係者の、横田めぐみさん「自殺」の状況説明にも不自然な点が多々あった。
決定的だったのは「遺骨」だった。
日本に持ち帰ってDNA型鑑定する前に政府から骨壺を見せられた早紀江さんは、キッパリ言った。
「私は、こんなの信じません。(北朝鮮の)揺さぶりに過ぎない」
2004年12月8日、政府が公表した
「国内で最高水準の研究機関による客観的で正確な」
鑑定結果は
「骨は別人」
だった。
横田めぐみさんの「遺骨」の存在自体が奇妙だった。
提供した元夫は、こう説明した。
<死から3年後に、村人3人とともに所属部署にも無断で病院の裏山から遺体を掘り起こして持ち帰り、火葬した上、保管してきた>
土葬から3年も経って、すでに再婚していた元夫が前妻の遺骨を掘り起こして遺骨を保管するだろうか。
不可解極まりない。
日朝間の「8人死亡」をめぐるやり取りを精査すると、北朝鮮という国の悪しき”特性”が改めて見えてくる。
1つ。明々白々な事実も絶対に認めない。
欧州からの「成人男女3人(有本恵子さん、石岡亨さん、松木薫さん)」拉致は認めながら、「八尾恵(元スナック店主)証言」で疑いようのない「よど号犯」グループの関与は完全否定。
大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫元工作員の教育係だった日本人女性「李恩恵(リ・ウネ)」についても同じだ。
田口八重子さん拉致を認めながら「李恩恵(リ・ウネ)」の存在は絶対に認めない。
1つ。国家間の交渉の場でも平気でウソをつく。
2002年9月17日の日朝首脳会談で拉致を認めた金正日国防委員長は
「関係者は、全て処分した」
と言った。
その後の北朝鮮提出の「刑事事件記録」によると、拉致に関わった2人を1998年、1999年に裁判にかけている。
これは当局が1998年時点で拉致の存在を知っていたことを意味するが、2002年9月17日の小泉訪朝まで日本に対して
「拉致はあり得ない」(2000年の国交正常化交渉)
と強く否定し続けたことは前述した。
「8人死亡」の信憑性は限りなく低い。
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